第15回 鈴木健夫 – ペルー伝統の味を守り続ける日本人シェフ 中編

リマにやってきた鈴木さんは、ペンションの管理人として働くかたわら、リマの旧市街で人気だった日系人経営の大衆レストラン「Don Juan(ドン・ファン)」でペルー料理の基礎を学ぶことになった。

スペイン語はまったく知らなかったが、ここで食材名や調理に関する単語を一気に覚えたという。当時は無給で働いたと言う鈴木さんに、その理由を伺う。

「ボクはペルー料理の研究に行ったからね、教えてもらう立場で給料は貰えないでしょ。それに観光ビザだったんだから、稼いじゃダメだしね」とストイックな一面も見せた。

「こうして改めて自分の歴史を振り返るのも、悪くないね」と語る鈴木さん

しかし数ヶ月もすると、鈴木さんはドン・ファンでの修行に物足りなさを感じるようになっていた。ドン・ファンの料理は日系人ならではのアレンジが加えられており、自身の求める伝統的な作り方とは相反するものがあったのだ。

チキンスープを作るのに市販のブイヨンを使うか、骨付き鶏や野菜くずを煮込むところから始めるか。たったこれだけの違いも、職人肌の鈴木さんには受け入れ難かった。「ボクは簡単に売れる料理じゃなくて、昔ながらの本当の作り方を研究したかったんだ」もっと納得のいく修行をしたいと、別の店を探し始めた。

次のターゲットは、リマ随一の名店と謳われた「Tambo de Oro(タンボ・デ・オロ)」だった。知人宅で知り合った留学生に通訳を頼み、「給料もいらないし、迷惑もかけない。とにかくペルー料理を教えてほしい」とその店に飛び込んだ。

しかしいくら無給とはいえ、得体の知れない外国人をハイハイと雇うような高級料理店はない。鈴木さんは何度も門前払いを食らったが、それにもめげず通い続け、1週間目にやっとその望みを叶えることができた。ペルー料理を知りたい、もっと理解したいという鈴木さんの探求心は、その後ますます高まっていった。

タンボ・デ・オロで半年間修行し、名のあるペルー料理をすべて習得した鈴木さんは、南米各地の食文化を学ぶ旅に出た。ところが貧乏旅行による栄養失調と疲労が祟ったのだろう、リマに戻ったとたんA型肝炎を発症、そのままリマの病院に運ばれてしまった。

「当時の国立病院は、そりゃすごくてね。大部屋に入れられたんだけど、それが体育館より広くて、まさに野戦病院さながらなの。で、毎晩誰か死んでいくわけ。すると看護婦たちが来て、遺体からババッと服をはがして、その遺体をベッドの下に置いた鉄製の担架に落とすのよ。その『ゴトン』って音がすごくてねぇ。あー、死んだらモノ扱いなんだって思ったよ」

想像するのも恐ろしいペルーの病院。しかしさすがカトリックの国だけあって、身寄りのない貧困者を救済する体制は整っていた。とある慈善団体が、なんと鈴木さんの2か月分の入院費を肩代わりしてくれたのだ。

「食事だって悪くはなかったし、腹が減ったら看護婦さんが時々パンを恵んでくれた。だからペルーの病院には感謝してるんだよね」20代という若さゆえの環境適応能力であった。なんとか体力を取り戻した鈴木さんは日本へ帰国し、複数の店でペルー料理のシェフとして働いた。

当時の日本でペルー料理は大変珍しく、マスコミの注目を集めたという。テレビや雑誌の取材を頻繁に受けていた鈴木さんは、「あのまま行けば、ちょっとした有名人になっていたと思うよ」と笑いながら当時を振り返る。

鮮魚のレモンマリネ「セビーチェ」、さまざまなサルサ(ソース)をかけた「オードブル」、
クスコ伝統の調理法で仕上げたアンデスのモルモット「クイ」など、鈴木さんご自慢の料理が並ぶ

そんな中、現地の素材が手に入らない日本でペルー料理を作り続けることが、常に「本物」を追い求める鈴木さんにとって次第に苦痛となっていった。どんなに工夫を重ねても、代用品では自分が目指す味を出しきれないのだ。

「ペルーの豊かな食文化を日本で再現したかったのに、それができなかった。どんなに美味しくったって、それは全部まがい物だ。自分では60点くらいだと思っているのに、まわりにはチヤホヤされてさ。それってペテンだよね。お金は稼げたけど、嬉しくないんだよ」

シェフとしての成功を収めているにもかかわらず、日々不満が募っていく。「妥協」という文字をレシピに加えたくない鈴木さんにとって、これほど辛い時期はなかった。ある日鈴木さんはバイク事故を起こし左手首を骨折、フライパンが握れず休業を余儀なくされた。

料理を作るのも苦痛だが、作れなければもっとストレスが溜まっていく。そんな鈴木さんの姿を、ペルー料理の神様はずっと見守っていたのだろう。神様は彼の友人の口を借りてこう囁いた。

~日本より暖かいところのほうが、骨の治りが早いよ~

日本より暖かいところ、ペルーだ!たったその一言で再びペルー行きを決めたという鈴木さん。ペルーに戻る予定はなかったのに、実は帰国後もずっとスペイン語の勉強を続けていたというから驚きだ。

帰国からすでに8年経過していたが、鈴木さんは何の問題もなくペルーの料理界に復帰することができた。己がいるべき場所に帰ってきたのだ。

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2017年4月20日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。