11月1日、ライトアップされたインカの精緻な石組みをバックに象徴的なセレモニーが開催される中、全世界に向けマチュピチュ遺跡が再びその門を開きました。観光客の再来にあたり、この新大陸の至宝にまつわる数々のいわれや伝説の答えを求めて、英BBCが様々な専門家にインタビューを行いました。
マチュピチュ遺跡が“発見”されてから100年以上経った今でも、空中都市建造の理由は謎に包まれています。宗教的な施設なのか?インカ皇帝パチャクテクの手によるものなのか?なぜあのような険しい場所に造ろうとしたのか?これらは考古学調査や観光客の来訪を通じ、数十年間にわたり問われ続けている謎の一部です。
それでは、マチュピチュ遺跡に関するいくつかの疑問点とその答えを見ていきましょう。
1. なぜ山の上に造られたのか?
この遺跡は、ケチュア語で“老いた峰”を意味するマチュピチュ山の頂に鎮座しています。山の麓にあるマチュピチュ村自治体の観光専門家ホセ・ルイス・ロサス・ラモスは、この配置が一帯のスピリチュアルな重要性に関係していると述べています。
「都市建設に先立ち、インカの人々は事前にこの場所を調査していたようです。彼らにとって山々はアプ(山の神)であり、マチュピチュは3つの峰(アプ)に囲まれ“神に守られた”都市でした」ロサスはまた、対抗勢力であるチャンカ文化の侵略を避けるため、当時の建造物は習慣的に険しい峰の上に造られていたと話しています。
2. 皇帝パチャクテクはマチュピチュに住んでいた?
これは重要なことですが、一部の学説によると、マチュピチュ遺跡はインカ皇帝パチャクテクの命により1435年頃建設されたと言われています。ロサスはこの仮説に関し、これを裏付けるエビデンスが何もないことから、今のところ正誤の判断はできないと考えています。当時の専門家やエンジニア、司祭がこの場所を頻繁に訪れていたことから、マチュピチュが科学的な調査の拠点として利用されていたとする説をロサスは支持しています。
一方、歴史学者のドナート・アマドは、インカ皇帝パチャクテクはこの場所をレクリエーションのような目的で利用してはいなかったと考えています。「考古学・人類学者ジョン・ローウェによる、1568年に書かれた文献の解釈には誤りがあります…この文献にはパチャクテクの子孫への聞き取り調査が含まれており、スペイン人侵略者がこの地を訪れた際、『一帯の土地はすべてインカが所有し支配者たちのミイラのためにある』と彼らから告げられたと書かれています。これが、マチュピチュ遺跡がインカの霊廟であったと推察する理由です」とアマドは解説しています。
3. どうして何百年も壊れずに残っているの?
マチュピチュ遺跡が私たちを圧倒することのひとつは、何百年という時の経過にもかかわらず、今でも良好な状態を保っているということです。ロサスによると、これはおそらくアンデネス(棚田様の構造)の働きによるもので、この構造はインカの人々が土木工学のエキスパートとして認知される所以でもあるといいます。「排水システムを支えていたアンデネスは、遺跡の保存にとても重要な役割を果たしていました。このため遺跡全体が無傷のまま残っていたのです。精緻な石組みや微妙な傾斜角度も理由のひとつです…1650年と1950年にクスコを襲った2度の大地震により、スペイン植民地以降の建造物は破壊されましたが、マチュピチュを含めインカのものは無事でした」
しかしながら、遺跡の保存には他の要因も影響していたと思われます。マチュピチュは、かつてのペルー人が神聖視した建物の破壊と略奪を繰り返し行っていたスペイン人侵略者たちの手が届かない場所にありました。大規模な侵略の最中、インカ皇帝マンコは、マチュピチュへと続く街道や小道をすべて破壊するよう命じ、マチュピチュの住民は出来る限りの家財を携えて逃げました。間もなくマチュピチュは無人になり、一帯の気候のおかげで草木がインカの石組みを覆い始めました。このようにして無傷のまま遺跡が残ったと考えられます – 国連教育科学文化機関(ユネスコ)ラテンアメリカエリアの世界遺産専門家、セサル・モレーノはこのように述べています。
4. 最初にマチュピチュを発見したのはハイラム・ビンガム?
「“発見”というのは、まったく知られていなかった場所が初めて見つかることでしょう。しかし、マチュピチュは隠された遺跡ではありませんでした」歴史学者のアマドはこのように説明しています。米国人ハイラム・ビンガムがマチュピチュ発見(1911年)の立役者であると歴史の本に記されていたとしても、聖地と遺跡の存在がそれ以前から語られていたことは、ペルー人ならよく知っていたでしょう。
これに関しロサスは「しかしながら、すべての学際的探検を組織したのはハイラム・ビンガムであり、遺跡調査への貢献は大きいと言えます」と注釈しています。
5. マチュピチュは失われた都だった?
前述のように、当時の住民が遺跡の存在に気付いていたという理由から、マチュピチュは“失われた都”ではありませんでした。「その場所は聖地とされていましたが、失われた都でも秘密の隠れ家でもありませんでした」とロサスはコメントしています。
6. マチュピチュ遺跡は消滅の危機にある?
大勢の観光客と気候変動による遺跡消滅の可能性に関するいくつかの説が巷に流れていますが、複数の専門家がこれらは真実ではないとしています。
「そのようなことを言おうとする人には、たぶん悪意があるのでしょう。私には論理的に見えません。訪問者が多いのは事実ですが、遺跡の保全には影響しないよう願っています…机上の議論だけにとどまらず、遺跡を後世に残し、そしてこのような質問の機会を無くすため、クスコの住民とペルー政府、そして世界中がこの世界遺産の保存に関し非常に重要な責任を担っているのです」とアマドは強調しました。
(ソース: Promperú 03/11/20)
ペルーパンデミック236日目
ペルー保健省発表11月4日COVID-19関連国内統計
- 感染者数累計 914722人(前日比+2935)
- 死者数累計 34730人(+59)
- 既検査数累計 4611380件(+19973)
- 陽性率 19.84%↓
- 死亡率 3.797%↓
- 1日の検査数 19973人(-3085)
- 1日の感染者数 1091人(+47)※当該日以前の感染者1844人を除く
- 入院患者数 5212人(-75)
- 上記の内ICU患者数 1044人(+7)
- 回復患者数 838265人(+2571)
直近一週間の一日当り感染者数推移(カッコ内は死者数)
- 11月4日 2935人(59)
- 11月3日 2885人(48)
- 11月2日 2357人(38)
- 11月1日 1634人(56)
- 10月31日 2408人(53)
- 10月30日 2323人(65)
- 10月29日 2586人(49)
- 直近7日間平均 2446.9人↑(52.6↑)
- 直近7日間の陽性率 12.42%↑ ※累計比
(ソース: MINSA 11月5日)