カハマルカはエクアドルと一部国境を接するペルー北部の州の州都で、標高約2700m、年間平均気温14°Cの地方都市。カハマルカとはケチュア語で「寒い大地」の意味。
インカ帝国最後の皇帝アタワルパが幽閉されていたという「身代金の部屋 (Cuarto del Rescate) 」は、カハマルカの中心部、サン・フランシスコ修道院の傍 (Jr. Amalia Puga 750) にある。入り口は見落とし安いので注意が必要。
ホールにはスペイン人フランシスコ・ピサロとアタワルパを描いたカハマルカの画家たちによる絵が飾られている。1532年11月15日、ピサロと共にカハマルカ入りした168名のスペイン人は、翌日姦計により皇帝アタワルパを捕らえる。この「カハマルカの戦い」では、非武装の者も含め6千人以上のインカ兵士が殺害された。
幽閉されたアタワルパはピサロ一行に対し自らの解放を申し出る。その条件とは、身代金の部屋を黄金とその倍の銀で埋め尽くすことであった。皇帝の命によりおよそ6トンの金塊と12トンの銀塊が国中から集められたと言われている。
一方己の解放が絶望的なものと察し始めたアタワルパは、当時インカ帝国の領土であったエクアドルのキトに援軍を要請する。この計略を知ったピサロはアタワルパに死刑を宣告。1533年7月26日、アタワルパは改宗を受け入れることで火刑を免れるも、スペイン人の手により絞首刑に処せられた。
これがコロニアル建築の家屋内に現在も残る身代金の部屋 (Cuarto del Rescate)。16世紀以降この部屋は地元の名士たちや団体により受け継がれ、1974年以降はINC (ペルー国家文化庁) の管理下にある。1986年に改修された。
入り口から内部を覗いたところ。正面の壁上部にあるプレートに注目。
皇帝アタワルパは、このプレートの真下に引かれている赤い線までこの部屋を金銀で満たすと約束した。
身代金の部屋を横から見たところ。左側の壁上部にあるのが先程のプレート。
黄金に目が眩んだピサロ。もしこの部屋からアタワルパが解放されていたら、現在のペルーはどうなっていたのだろう。途方もない価値の金銀を奪われた上に殺されたインカ帝国最後の皇帝、アタワルパの無念は言語に絶すると言えよう。