第8回 藤井永里子 – 直感が導いた人生 後編

日本に帰った永里子さん一家。しかし、夫の隆彦さんはペルーに戻りたがっていた。もう一度やり直せるだろうか……

悩んだ末、「ご主人が戻りたがっているなら、戻りなさい」という知人の言葉に背中を押され、一家は3ヶ月足らずでペルーに帰国した。折しもペルーは、大統領選挙の真っただ中。この時、国が大きく変わろうとしていた。

一家にとっての転機は、1990年4月に開催された「エッソ南米ラリー」だった。ペルー・チリ・アルゼンチン・ボリビアの南米4か国を駆け抜けるこのラリーは、日本のバブル経済が実現させたまさに夢のイベント。

隆彦さんはNHK取材班の通訳兼、カーメカニックとしてツアーに同行。また日本製中古車ペルー輸入解禁の噂を聞きつけ、ペルー初の中古車輸入代行業者としても、その手腕を発揮するようになった。

一方、永里子さんは借家の一部を利用して、下宿屋を始めていた。1990年7月のフジモリ政権誕生で、日本のマスコミやビジネスマンの需要が増え、なかなかに繁盛したそうだ。

加えて当時は、遠洋マグロ漁船が頻繁に寄港していた時代。漁船がペルーに停泊する2週間ほどの間、1回当たり20人を超える乗組員の食事を請け負い、1日3食×人数分の弁当作りに精を出した。

30代には時代に翻弄された永里子さんだが、40代以降は自らの人生を果敢に攻めるようになる。当時日系人が相互扶助として行っていた「タノモシ(頼母子講)」を利用して土地を購入、自動車修理工場を建て、カルチャースクールも創立した。

「なんでもお父さんに相談してから決めてるよ」と言いつつ、「土地を買おう」「こんな商売をしよう」と最初に思い立つのは永里子さんらしい。永里子さんの直感は、結婚後も鈍ることはなかったようだ。

ペルーのビンゴはスペイン式。1枚のシートにビンゴ表が6つ並んでいるが、1つずつ切り離して遊ぶこともできる。

そんなある日、日系人の友達との何気ない会話がきっかけとなり、永里子さんはビンゴゲームに興味を持つようになった。

ビンゴマシンが、数字の書かれたボールを無作為に選んでいく。自分のビンゴ表にその数字があればその都度潰していき、ラインが揃ったら「ビンゴ」だ。ルールもシンプルで誰もが参加でき、何時間でも楽しめる。

数日後、永里子さんはある不動産賃貸物件を見つけた。その瞬間、彼女の直感が閃いた。「ここでビンゴ屋を始めよう!」

長く続いたテロの脅威が多少下火になり、誰もが外に出たくてウズウズしていた頃とはいえ、聞いたばかりの話をすぐ商売に結び付ける度胸は、とても一介の主婦とは思えない。

さっそく永里子さんがその友人に話を持ち掛けると、もともとビンゴ好きの友人は大乗り気で、スタッフ集めから運営まで一手に引き受けてくれた。

併せてレストラン「ガーデン」もオープン。日系人が集う日秘文化会館の近くとあって、多くの人がビンゴに興じ、美味しい料理を味わった。

広々としたビンゴホール。奥にはスロットマシーンもあり、夜は活気に満ち溢れる。

しかし、直感だけでは上手くいかないこともある。賃貸契約書の不備から、家主とのトラブルが発生。その問題がひと段落したのもつかの間、今度は別の共同経営者が起こしたもめ事に巻き込まれてしまった。

多額の負債を抱えることになってしまった永里子さん。その解決には何年もかかったが、今は新しい仲間に恵まれ、ビンゴホールの経営も落ち着いている。

「上手いこといく時もあれば、あかん時もある。世の中、ちゃんとバランス取れてるよね」

現在はキッチンの広さが気に入って、即決で買ったというリマ市内のアパートで、レストランのメニューを開発したり、販売用の冷凍食品づくりに勤しんでいる永里子さん。物があふれる時代になっても、手間を惜しまない姿勢は昔となんら変わりない。

すでに3人の子供たちも立派に成人し、それぞれの道へと進んだ。永里子さんは今、お手製の料理を肴に、隆彦さんとグラスを交わす穏やかな日々を楽しんでいる。

(終)

※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2016年3月11日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい