ペルー南東部に位置するアマゾンの州、マードレ・デ・ディオス。ボリビア、ブラジルと国境を接し、かつて日本人移民が「聖母県」と呼び親しんだ緑深きジャングルの大地だ。先日、その州都プエルト・マルドナードで飲食業から保険代行業に至るまで手広く事業を展開するフクモト一家を訪ねた。日系三世のエルビス・フェルナンデス・フクモトさんとその家族が、亡き祖父・福元英二さんについて語ってくれた。
鹿児島県揖宿郡頴娃(えい)村出身の福元英二さんが契約移民としてペルーのカヤオ港に到着したのは、1913年10月2日。同年同月、「在ペルー邦人75年の歩み・渡海者名簿」に福元姓の男性がもう一人記載されていることから、当時20歳だった英二さんは親族と共に渡秘したと推察される。英二さんは当初カニエテのサトウキビ農場に配属されたが、比較的早い時期にそこを離れたようだ。
移民事業開始から10年以上過ぎ、耕地労働もかつてほど悲惨な状況ではなくなっていたが、自費渡航の上に一定期間拘束される契約移民のメリットはすでに失われつつあった。英二さんが渡航した当時は耕地脱走が常態化しており、中でも鹿児島県出身者は渡航直後から破約逃亡するものが多く問題になっていたという。その結果、同県に限り移民募集が一時中止されたほどだ。
英二さんはカニエテからアンデス山脈を超え、聖母県を通ってボリビアを目指した。カニエテで「ゴムは儲かる」と耳にしたからだ。19世紀末の南米アマゾンは空前のゴム景気に沸き、ペルーからボリビアやブラジルに国境を越えて違法入植する日本人が大勢いた。逃亡者であった彼らの移動手段は徒歩に限られたため、カニエテからプエルト・マルドナードまでは一か月を要したという。
温暖なペルー海岸部で暮らす彼らが、標高5000mを超すアンデスを前にしてあまりにも無防備であったことは想像に難くない。途中で命を落とした人もいただろう。それでも一攫千金を夢見てアマゾンを目指した日本人は5000人を下らない、とエルビスさんは語る。こうした人々は当時「東下り」ならぬ「ペルー下り」と呼ばれていた。
1910年代にはすでに陰りが見え始めていたゴム景気だが、ボリビアのゴム王ニコラス・スアレスに可愛がられていた英二さんは、彼の下で長く働くことができた。その後ボリビア人女性と結婚した英二さんは、夫婦で プエルト・マルドナード(聖母県) に戻ってきたという。
当時のプエルト・マルドナードの人口はわずか2000人ほどだったが、ゴム景気の名残りだろうか、その中には日本人が250人もいたそうだ。英二さんは町の中央広場や目抜き通りにヤシやブラジルナッツを植樹し、地元の発展に大きく貢献した。英二さんが丹精込めて育てた木々は今では見事な大木に成長し、地元の人々に涼やかな木陰を提供し続けている。
エルビスさんの母や叔母たちは、「父は子供を折檻することなど一度もなく、とにかく優しい人だった」と声を揃えて誉めそやしていたが、その父から日本語は一切教わらなかったそうだ。フクモト家には日本へ出稼ぎに行った身内から送られてきた日本人形や置物がたくさんあったが、家族の食習慣や暮らしぶりはペルー人そのものだった。
エルビスさんは町にある日本人墓地「Cementerio Los Pioneros(先駆者墓地)」を一人で管理しているが、ほとんどの遺骨は新しい公営墓地へ改葬され、今ではメモリアル的なニュアンスの方が強い。日本人移民80周年記念事業で建てられたという位牌堂は立派なものだが、その扉が開けられることは滅多になく、位牌の整理もほとんど行われていないように見えた。
「父がスペイン人のせいか、私の顔はまったく日系っぽくありません。でも私の身体には日本人の血が流れているんですよ」と言うエルビスさん。しかし彼の日系人としての誇りと献身を次世代に受け継いでいくのは、そう容易いことではないだろう。
リマから遠く離れたこのアマゾンで日系人が着実に日本の文化を守り伝えていくためには、人と資金の両方が必要だ。子供たちに余計な負担をかけまい、ペルー人として生きよ。そうした想いから、英二さんはあえてわが子に日本語を教えなかったのではないだろうか。
プエルト・マルドナードの地元レストランで食事をしていた時に偶然ペルー人男性からフクモト一家の所在を聞き、今回の取材となった。一介の日本人観光客にさえ伝えたくなるほどの名士一家なのだろう。旅先で思いがけず出会えた親切な人々に心から感謝している。
※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2013年9月23日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。