その穏やかな口調から、誰にでも親しまれる「パードレ・カトウ(加藤神父)」。1926年にリマで生まれたパードレは、87歳を迎えた今も日系ペルー人初のカトリック神父としてさまざまな社会事業に注力している。しかし子供の頃は彼を含めた家族全員が仏教徒で、自宅には仏壇があった。当時日本人移民の誰もが想像だにしなかった神父という職業を、そんな少年がなぜ選択したのだろう。それには彼の両親、特に母ぶのの存在が大きく影響している。
両親は1918年にペルーへ渡航。事業を起こすが知人に騙され、財産を失い厳しい生活を余儀なくされていた。しかし、一家は貧困の中でも至誠と扶助の心を信条に暮らしていたという。特にぶのは、わずかでも余裕があれば貧しい隣人に食事を分け与えるような人であった。
そんな母の行いは、幼きカトウ少年の中で授業で習うカトリックの教えと重なっていった。当時カトリックはペルーの国教であり、日本人小学校でも宗教は必須科目だったのだ。正直であれ。勤勉であれ。互いに協力しあい弱き者を助けよ。このような精神は、国や信仰を超えた普遍的なものとして、移民一世に共通した美徳であった。
ぶのの気骨を伝えるこんなエピソードがある。カトウ少年が小学5年生のころ、家計を助けるためぶのは日本人学校の校長宅で女中として働くことになった。加藤家の経済事情を知る教師たちは、この新しい女中の手癖を見極めようと、小銭をばら撒き影から様子を伺っていた。その夜、ぶのは口惜しさに身を震わせて息子にこう言った。「いかなる時も、決して人を試すようなことをしてはならない。たとえ餓死しようとも、泥棒などしてはいけない」母が初めて息子に見せた憤りであった。
1940年5月13日、首都リマで排日暴動が勃発。経済的に成功しつつあった日本人移民への妬みと閉鎖的な同社会への不信感、軍国主義へと突き進む日本への危機感が高まった結果、暴徒化したペルー人により日本人商店が略奪にあい、多くの住宅が破壊された。一方、同じ長屋に暮らすペルー人たちに守られた加藤家は、奇跡的に無傷で済んだ。母ぶのの人徳に助けられたのだ。
その後奨学金を得たカトウ少年は、カトリック大学付属中学へ進学した。そこで神父という職業を理解し、自分の進むべき道を悟る。「自分もかつて貧しかったがゆえに、貧しい人たちを助ける仕事がしたかった」 母の背を見て育ったカトウ少年には、至極当然の選択肢だったのかもしれない。
しかし、修道の道は決して楽ではなかった。時はまさに第二次世界大戦真っ只中、「よりによってなぜカトリックの神父なのか」と訝る移民一世たちに、出だしから猛反対されたのだ。日本に長く暮らしていたカナダ人神父たちの協力でなんとか周囲を説き伏せ、1946年にカナダ留学を試みるが、ペルー国籍であるにもかかわらず当初は渡航ビザが下りなかった。戦後も日本人及び日系人への差別は続いていたのだ。翌1947年にカナダへ渡り、念願の修道生活を開始。ケベックで20代を過ごした彼は、この時初めて自分が何人なのか真剣に考えたという。
1954年、7年間の修行を終えた帰国の際に、今度はペルー政府から入国を拒否された。戦後10年近く経っても、未だ敗戦国の血を引く者への警戒心は解かれていなかったのである。困ったカナダの修道会は、バティカンへ直訴。教皇庁の仲裁でペルー政府が譲歩し、なんとか帰国が許されたのは、カトリックが国教だったからだ。しかし、次のローマ留学は再びペルー政府に阻止されてしまう。単なる日系人差別だけでなく、当時のペルー政府が日系人初の司教誕生とその影響力を恐れていたのではと推察される。
さまざまな困難を乗り越えた若きパードレは、その眼差しを第二の故郷である日本へ向けた。パードレ・カトウは1955年に日本へと渡り、精力的な活動を行う。その後、母国の日系社会に乞われ再びペルーの地を踏んだのは1976年。この時すでにペルーでは、母の世代である一世に替わり二世の時代が訪れていた。
来年はパードレが司祭となって60年、そして米寿を迎える記念すべき年だ。すでにその記念コンサートなども予定されており、多くの人々が彼の功績を称えようとその日を楽しみにしている。もちろん私もその一人である。(パードレ・マヌエル・カトウは2017年1月6日に逝去されました)
※この投稿は、海外在住メディア広場のコラム「地球はとっても丸い」に2013年5月21日付で掲載された記事を再構成したものです。文中の日時や登場人物等が現在とは異なる場合がありますのでご了承下さい。