ペルーで緊急手術 その2

緊急手術を前に、さまざまな検査が行われた。その頃には私も何の病気かを理解していたので、気持ち的な余裕も多少は生まれていた。

とは言え、この時点ではまだだんなの状態をしっかり把握していなかった私。執刀医のDr. Rに、「ご主人はかなり危険な状態です。分かりますか?muy grave!(重篤!)」と言われてやっとビビる始末。しばらく放置してしまったため、患部が癒着を起こし壊疽が始まっているという。「podrido、この単語、分かる?」と言われて慌てて電子辞書を打ち、表示された意味を見て「えっ?腐ってるんですか?」と初めて焦る。それでも妙に実感が薄かった。この間抜けな私を冷静に見ている別の私がいるような、不思議な感覚だった。

16:48、手術開始。集中治療室に運ばれるだんなを見送り、待合室で待機。ちょうど夕方の面会時間だったこともあり、待合室には治療中の家族や友人を見舞う人たちが大勢いた。

その中に、ちょっと場違いな家族がいた。身なりや立ち振る舞いから、明らかにこの地区の住人ではない。もちろん、誰がどの病院を利用しようと自由だ。しかし「金持ち=保険あり=私立病院」、「貧乏人=保険なし=国立病院」という図式が成り立つこの国で、後者らしき彼らは否応なく目立つ。他の白い人たちは、その一家と適切な距離を保ちが立っているように見えた。ペルーらしい光景だ。

18:20、Dr. Rが集中治療室から出てきた。手術は成功!とりあえず危機は脱出したと。よかった!「今は麻酔で眠っているけど、状態が落ち着いたら会えるからね」「ボクは明日朝6時に診察に来るよ」と言い残し、Dr. Rは去っていった。面会時間は終わっていたため白い人たちは次々に立ち去り、例の家族も若い女性を1人残し、大きな荷物を抱えて帰っていった。

その後、いつまで経っても何の連絡も貰えなかった。いつ呼ばれるかと思うと、食事どころかトイレにも行けない。集中治療室のドアを叩き、係員に状況を訊ねる。しかし「ドクターの許可がないから面会はダメだ。もう少し待て」と押し返されるばかり。いつまで待てと言うのだろう。もしかして手術は失敗してだんなは死んじゃったのに、誤魔化してるんじゃないか?色んな考えが脳裏をよぎる。

誰もいなくなった待合室で、その若い女性と少し話をした。予想通り、彼女はパチャクテク(リマ北部の貧困地区)の住人で、2日前にトラック事故に巻き込まれた夫が集中治療室にいるという。足の骨折には対処できたが、「パチャクテクには割れた頭を手術できる病院がないのさ。だからここに運んできたんだ」と。私だったら半狂乱になりそうだが、ペルー人はこういう時妙に落ち着いてみえる。しかし「保険はあるの?」との私の問いに、「SOAT(自動車保険)はあるけど、ここの治療費までは賄えないかも・・・」と初めて不安を訴えたのが印象的だった。

私が日本人だと知ると、彼女は日本について知りたがった。でも日本がペルーの裏側にあることすら知らず、説明が難しい。中国と日本、その他アジアはすべて同じで、文字も共通だと思っている。だから何度説明しても私のことを「チーナ」と呼んだ。その癖、「アフリカでは11歳の少女が児童結婚させられるんだよ。ひどいよね!」と憤慨する。そのアンバランスさが面白い。

当然のごとく料理の話にもなったが、彼女はリマ中にはびこるあのmakiを知らなかった。その上、「スシ?あ、知ってる!あのアマゾンで食べるっていう白いヤツでしょ?」・・・いや、それは「スリ」ですから!suriは虫で、寿司は日本の心ですからー!1億2000万人を敵に回した事実に気づかず、子供のように何でも知りたがる彼女。何をどう説明しても正しく伝わらないのは残念だったが、この取り留めもないやりとりにはずいぶん救われた。

23:30、集中治療室に入ることを許された。やっと顔が見えると思ったら、その前に「これを読んでサインをして下さい」と書類を渡された。今後の処置に関する具体的な方法とそのリスクが書かれているのだが、サインだけでなく、指紋捺印までしろと言う。そんなヤバい書類を突然渡されても、すぐに判断なんてできないよ。しかし「サインがないと、何かあっても処置できません」と言われたら仕方がない。ええい、ままよ!

7時間ぶりにだんなの生存を確認。まだ麻酔が聞いているのかうつらうつらとしていたが、黄疸でまっ黄色だった顔に少し赤味が差していた。あっという間に追い出され、仕方なくまた待合室へ。あの女性は椅子でぐっすり眠っていた。私もタクシーを捕まえ14時間ぶりに帰宅。本当に長い一日だった。