「Hijo de ratero es ratero también(コソ泥の子はコソ泥)」文化が成熟していく中で、こんなバカげた言葉を堂々と言う人はほとんどいなくなった。そりゃそうだろう、子供は親を選べない。例え親が人殺しでも、子供に責任がないのは明らかだ。
ところが。5月22日の討論会でケイコに押されっぱなしだったのがよほど頭に来ていたのか、クチンスキは24日の党大会で「私は誰が泥棒で、誰がそうでないか分かる。最も可能性が高いのは、コソ泥の子はそいつもまたコソ泥ということだ!」と、上から目線の本音をぶちまけてしまった。
この後に及んでこんな失言をするなんて、彼の支持率は相当下がるだろう・・・と思った。いくら反フジモリでも、人権派を自認するならこの言葉は容認できないはず、と。
ところが討論会直後の結果(ケイコ52.6%、クチンスキ47.4%/トップ写真El Comercio参照)と、5月23日~25日にかけて行われたリサーチ会社Datumの調査結果(ケイコ52.9%、クチンスキ47.1%)は、ほとんど変わらなかった。誰もこれを“差別発言”とは思わなかった(気づかなかった)のだろうか?
差別が日常に溶け込んでいるペルーでは、人々はこうした発言にとても鈍感だ。ちょうど他局の番組で、人気コメディアンのメルコチータが「あなたは誰に投票する?」と聞いて回っていた。その中で、髭だらけの人に「狼男」、太った女性に「ゴルダ」、ケイコに入れるといった女性に「あんたもチナだね」、小人病の男性に「ゴマ粒男」と声をかけるメルコチータ。私はびっくりしたが、言われた人たちはみんな笑っていた。「親愛の情」なら、何を言っても許されるのだ。
ペルー人が他人の外見的特徴を “愛称” として呼び合うのは、もちろん知っている。「チナ」も言い方によってはありかもしれない。でも明らかに悪意のある場合には、もう少し敏感になるべきだ。少し前にもクチンスキ陣営の一人が、「チナ(ケイコ)は目がシワのように細いから、よく(文章を)読めなかったんだろう」と人種差別的発言をした。メルコチータならまだしも、白人支配層の言葉だということを庶民はもっと考えるべきだと思う。でも多くが笑うだけか、気にも留めないのが現実だ。
ペルーは好きだが、こうした差別的発言が多いのには辟易する。歴史的に虐げられ過ぎて、耐性ができてしまったのだろうか。今夜はペルー大統領選挙の最終討論会。政策や実行力はもちろん大事だが、国を統べる者としての品格もぜひ指標に入れてほしいものだ。