そのタクシー運転手はジョニーと名乗った。「あんたは日本人かい?中国人かい?」と言うお決まりの質問に始まり、家族や子供の話になった。その後なぜ彼の人生話に至ったのかは、記憶にない。外国人女性だからと気を許し、なんとなく話す気になったのだろうか。
私の殴り書きメモによると、彼はクスコとアヤクチョとの境にあるHatun Suyuy(?)という村の出身だそうだ。1989年、彼の村はセンデロ・ルミノソに襲われた。命からがら逃げだした彼が村に戻ってみると、そこには両親の無残な姿があった。10歳だったジョニーは村を離れ、リマに向かった。
ジョニーは12歳の時、サンボルハ区のある屋敷に拾われた。家人は良い人たちだったようで、日中は使用人として働きつつ、夜には学校へ通わせてもらえたという。「私はケチュア語しか話せなかったので、とても苦労しました」とジョニー。言葉も分からない12歳の子供が、身寄りのない都会で右往左往する。その孤独と不安はいかほどだろう。そんな子供がごまんといた時代。私の想像など超えた世界。
家事手伝いをしながら建物の修繕やペンキ塗り、木工作業などを学んだ彼は、地域の人に重宝がられたようだ。「いつも声をかけてもらって、ありがたい」と言うが、それはひとえに彼の人柄と努力の賜物だ。何がなんでも生きねばという強い意志。戦後の日本の子供も、きっとこんな感じだったのだろう。ジョニーの場合は、つい最近のことだけれど。
今はサンボルハ区の某所でフィジカルセラピストとして働きながら、タクシー運転手や左官工などを兼業している。結婚し、3人の子供に恵まれ、元気に働くジョニーは幸せだ。それでも一時期は、強迫性障害的な症状に陥ったこともあるという。「18年前に一度村に帰ったんですよ。村にはまだ電気もなくてね。まだ奴らが出てきそうで、怖くて眠れなかった。マチェテ(農作業に使う大型の刀)を手に、夜を明かしました」リアルすぎる話に、相槌すら打てなかった。
「過ぎた」というには、あまりにも強烈な記憶。忘れはしないが、引きずることもない。生きることへの執着と、死を受け流す柔軟さ。ペルー人のこういうところに、私は強く惹かれる。
道すがら、ケンタッキーの灯りが見えた。「セニョーラはあれ(ケンタッキー)、食べたことありますか?」と聞く彼の声は、どこか弾んでいた。ああ、ケンタが好きなんだと思いつつ、「ある」と答えた。ジョニーは私の答えに満足そうに頷きながら、「実は私もあるんですよ。今までの人生で3度食べました」と。その口調の、なんと誇らし気だったことか!
「あれは素晴らしく美味しいですねぇ。でも高いから…」と声のトーンを落としたジョニー。それから私達は特に話すこともなく、タクシーは夜の街を駆け抜けた。あれから数か月経つ。ジョニーはもう、4回目のチキンを食べただろうか?だったらいいなと、心から願っている。